
料理人への憧れは、幼少期の修行現場で芽生えた
群馬県高崎市で創業50年以上愛されるイタリアンレストラン「シャンゴ」。その2代目として経営を担う関﨑晴五氏は、幼少期から料理人に囲まれて育った。当時のシャンゴは多くの料理人が技術を磨く修行の場として機能しており、社内では「シャンゴ学校」と呼ばれていた。休憩時間には職人たちとキャッチボールやサッカーをして遊んだ記憶が、今でも鮮明に残っている。
小学校3年生の時、将来の夢を書く授業で「コックさん」と記した。それは家業を継ぐという義務感ではなく、職人たちの背中を見て育った純粋な憧れから生まれた決心だった。高校時代からアルバイトを始め、調理師学校へ進学。その後は東京で居酒屋、フレンチ、寿司、牛丼チェーンなど様々な外食産業を経験し、自分が本当に追求したい道を模索した。幼少期に職人と触れ合った経験が、関崎氏の料理人としての原点となっている。

23歳でイタリアへ渡り、本物の技術を磨いた3年間
調理師学校を卒業後、関﨑氏は南麻布のイタリアンレストラン「イ・ピゼリ」で3年間修行した。シェフから「もう大丈夫だ」と背中を押され、23歳でイタリアへ渡る決断をした。ミラノやフィレンツェなど複数の地域で約4年間修行を重ね、パスタの製法から地域ごとの食文化まで徹底的に学んだ。27歳で帰国後は、麻布十番のクチーナ ヒラタで1年間経験を積み、技術をさらに磨いた。
「基本に忠実で、丁寧な仕事ができなければ美味しい料理はできない」。
修業時代に、学んだこの信念は、今もシャンゴの経営哲学の根幹にある。20代後半で群馬に戻った関﨑氏は、2代目という立場に甘えず新卒と同じ現場からスタートした。培ってきた技術と考え方を少しずつスタッフに共有し、店の味を進化させていった。この謙虚な姿勢が、後の経営にも活きることになる。

突然の世代交代。残ってくれた仲間への決意
約14年前、先代である父が急に倒れ、突然の世代交代が訪れた。当時の関﨑氏は本格的な経営をほとんど経験しておらず、通帳と印鑑を渡されても何から手をつければいいのか分からない状態だった。売上管理、人材配置、仕入れ交渉など、すべてを一から学び直す必要があった。関崎氏はスタッフ全員に頭を下げ、力を貸してほしいと訴えた。
去っていったスタッフもいた。しかし、残って支えてくれた仲間がいた。「何があっても、残ってくれたスタッフには不自由させない生活を送ってもらいたい」。その決心は今も変わらない。現在、シャンゴでは10年以上勤続するスタッフが複数名在籍し、調理から店舗運営まで幅広く活躍している。危機を乗り越えられたのは、日々の仕事を丁寧に積み重ねてきた結果だと関﨑氏は語る。

群馬に来ないと食べられない味を創る
シャンゴがこれから注力するのは、「群馬に来ないと食べられない味の創造」である。イタリアでは、特定の料理を食べるために100km以上車を走らせることが当たり前の文化がある。「ワインとオリーブオイルは旅をしない」という言葉が示すように、その土地でしか味わえない価値が存在する。関﨑氏はこの考え方をシャンゴに取り入れようとしている。
具体的には、群馬県産の小麦「さとのそら」を使用した自家製パスタや、高崎産の野菜を活かした季節限定メニューを展開している。生産者と消費者の距離を縮めることが、これからの外食産業の使命である。飲食店が間に立ち、農家の顔が見える料理を提供することで、双方にとっての価値が生まれる。SNSでの派手な発信ではなく、料理の味そのもので勝負する姿勢が、シャンゴの強みとなっている。

シャンゴが実践する人材育成と働く環境
関﨑氏は若者に対して、「10代にしかできないこと、20代にしかできないことがある」と語る。年齢を重ねるごとにやるべきことは増え、過去にやり残したことに手を回す余裕がなくなる。だからこそ、今しかできないことを見極め、挑戦することが大切である。シャンゴでは、入社1年目から調理補助だけでなく、メニュー開発のアイデア出しにも参加できる機会を設けている。
同時に、「頑張りすぎない勇気」も必要だと関﨑氏は強調する。昭和の時代は「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言われたが、思い詰めるまで頑張ることが正解ではない。自分自身を信じ、信頼できるようになることが、困難な時に自分を支える力になる。シャンゴでは定期的な面談制度を導入し、スタッフ一人ひとりのキャリア目標や悩みに向き合う体制を整えている。失敗しても若いうちは時間で取り返せる。まずはやってみることを大切にする文化が、この会社には根付いている。